日本の棺には寝棺と座棺がありました。
寝棺はご遺体を寝かせて納めるもので、座棺は座らせて(ご遺体を死後硬直する前に体育座りさせて結く)納めて埋めるものです。
座棺は昭和のはじめころまで使われていた記録があります。
ウィスキーの樽みたいなものを想像して欲しい。
しかし、地域によっては昭和の40年の半ばまで使われていた場所すらあります。
何故、私がそれを言えるかと言うと、昔、実家のスタッフがあるお客のところへ納棺しに行ったら、ご年配の方がご遺体をぐるぐる巻きにして結いてしまい(もちろんすでに死後硬直)解くのに大変苦労したからです。さらにそこはまだ土葬していたので!
そんな中、昨夜(2018/07/19)の日本葬送文化学会定例会にて当会員でもある染木商店さんが国産の木材を使った棺に関して棺桶職人としてのお話をしてくださいました。
染木商店さんは現在三代目で祖父の時代から行っているとのことです。
創業は大正10年(1921年)にてご尊父様が独立されて今の会社があるとのことです。
私の実家同様に法人化は昭和の40年台になってからです。
昭和40年台にて広島のメーカーが「フラッシュ棺」と言う棺を開発。
それまでは一枚板(無垢)であり、火葬にも時間がかかったり重かったりしました。
もちろん、それは高級遺品であり、職人気質が現れた棺でした。
この「フラッシュ棺」は枠があり、それに数ミリの桐の板が裏と表に張り合わされて作られた商品でした。これのおかげで木材を選ぶ必要がなくなったのと分回りもよくなったとのことです。
しかし、これは職人気質に反する製品でもありました。
- 葬儀社は軽い棺が欲しい→人が入れば棺の重量の加算される
- 火葬場は燃えやすい材質が欲しい→木材は関係なく燃えカスが残らなく引火しやすい素材を望んだ。
- 棺桶職人は立派なものを作って提供しおカネをいただきたい。
この状態ですべての人の思惑が絡まないのがわかる。
更に昭和40年台にて国のお達しと言うのか木材を扱う業者の暗黙の了解にて海外の木材を使えと(これが後に日本の山の管理が疎かになる)プレッシャーがかかったとのことで国内の木材がなかなか手に入らなくなった(高くなった)と。
更に棺のデザインも多様化してきて、アール(アーチ)になっている蓋なども出来てきた。
しかし、アールがある蓋は取り扱いが難しいので人気がなくて流通が芳しくなかった。
だが、フラッシュ棺ができたことで色々と加工しやすくなりまた日の目を見る時代がやってきた。
その時代から棺に窓がついたらしい。
フラッシュ棺の貼り合わせだからこそ、簡単に加工することが出来て(削り出す必要がない)窓が作られてご遺体をお別れの歳に見ることができるようになった。
さらにこのおかげで神式での葬儀のとき、蓋を取り外して開けることもしなくて済み、ただ窓を開ければ覗けるようになった。
そして、このおかげで棺が祭壇の一番上に乗せられていた時代から下に降ろされるようになり、会葬者は故人にお別れの言葉を伝えることが容易にもなった。
木材はモミ、杉、カラ松、更に安いものではスプルースが多い。
引火を容易にするには工夫が必要。
カンナでスムーズに削れば炎が跳ね飛ばされるので引火し辛い。
オイル(木材の脂)が多ければまた均一に燃えない。
ザラザラにすればササクレが生じたりするのと高級感を出せない。
更に当時の棺メーカーは、良い棺はジェスチャーとして4人で丁寧に運んで搬入したが、今では人手不足で二人で運ぶ。葬儀社も2人だろうが4人だろうが関係ない。そんなギミックは通じないし、逆に2人にして、単価を下げてもらったほうがありがたい。
燃えやすくするには火葬場からの指定もある。
そこで時代が変わった。
今の棺の多くは中国産の木材。これが輸入貿易にていつストップされるかわからない。
そんな中で染木商店さんは国内の使われなくなった木材を積極的に使い荒れ果てた山の手入れにも着手しているとのことでした。