昨夜(2018/06/21)、私が所属し、常任理事を務める日本葬送文化学会の定例会にて久しぶりに柴田千頭男先生の講演を聞くことが出来ました。
先生のお話を伺うのは12年ぶりです。
(このスクリーンショットは私の個人アーカイブより)
今回の定例会の内容は:
6月定例会のご案内「マルティン・ルターの生と死」~宗教改革500年にちなんで~柴田千頭男
柴田先生は今年で御年90歳になります。
当時12年前よりも眼光が鋭く、全く衰えを見せないお方で驚きました。
さて、今回はマルチン・ルターがどういう人物であったのか、そしてなぜ宗教改革(どうやら「宗教」をつけるのは日本だけらしく、海外ではただの改革=Reformだそうです)を行ったのか、そして同年代にいた人物(ガリレオ・ガリレイ)、没後にウィリアム・シェイクスピアやクリストファー・コロンブスなどのカトリック教会との戦いの時代であったが故に必然的にこういう人が生まれてくる時代だったのかと考えさせられました。
定例会の内容は、ルターの歴史、宗教観、死生観、そしてギリシャ語からドイツ語へ聖書を翻訳したこと、95カ条をグーテンベルクの印刷機の力を以て瞬く間にヨーロッパ全土にこれが広がったことのお話をいたしました。
しかし、私が気になったのは「宗教家とは」と柴田先生の問いでした。
ご存知の方も多いかと思いますが、欧米では人が亡くなりそうになると神父や牧師がきて祈り(神の義をいただく)を捧げて、どうかこの方がもう少し生きていられるように願う。今では、病院で亡くなることが多い日本だが、果たして日本の宗教家は枕元にきて祈りを捧げるか。たぶん行わないだろう。
医者と宗教家と葬儀社の役割は何かと。
話は少し飛ぶが、学生のころにM*A*S*H (Mobile Army Surgical Hospital) という番組を見ていた。これは朝鮮動乱にて米軍の医療チームが最前線の野戦病院で活躍する番組であり、主人公のBenjamin ”Hawkeye” PierceとB.J. Honnicut、Sherman Potter、Max Klinger、Radar O’reilly、Christopher Mulcahy、Margaret Houlihanなどの個性的なキャラの集まりで構成される番組があった。詳しくはWikiで見ていただきたい。
日本語版のWikiには誤りがかなり多いので英語版リンクを紹介します。
https://en.wikipedia.org/wiki/M*A*S*H_(TV_series)
さて、この番組で、医者と宗教家は何かと言うエピソードがあった。
医者は命を救う。
宗教家は心を救う。
最後に、”Father, you just saved a life. Welcome to the club.” で落ち込んでいたモーケイヒー神父(Fatherであり、牧師ではない)にホークアイ・ピアスが語った語録が神父を立ち直らせた。
ここが大切なのかなと。
では、葬儀屋は・・・本当なら葬儀の舞台の黒子であるべきだと私は考えている。
できれば、遺族の心の拠り所になって欲しいと。
しかし、そうなると宗教家や心理カウンセラーの領域に立ち入ってしまう。
私はそれでもよいかと思うが、ここで展開する内容ではないので割合する。
さて、宗教家はどうあるかと柴田先生の問いと答えはこうであった:
死んでいく人へ言葉を持っている人である。
亡くなる人へ語る言葉を持っているいますか?
どういう声を掛けたらいいのかをわかってますか?
これから息を引き取ろうとする人へ語りかけれますか?
それが出来なければ宗教家とは言えない。
大変貴重で厳しく、そして優しいお言葉であると。
果たして、これができる人はどれくらいいるのだろうか。
そもそも、「末期の水」と言うのは、本来は死に際にいる人の喉の渇きを潤すために水分補給するための行為(儀式ではなかった)と言い伝えがある。
今では、亡くなった人の唇を濡らす意味なき儀式になって、本質を見失っているかと思う節があり、見ていて歯がゆいところがある。
そして、葬儀社の人が身内ならともかく赤の他人の死の瀬戸際にいる人たちの近くにいることができるだろうか?
答えはNOだ。
これができるのが宗教家だと。
柴田先生のご講演に関しての報告が興味あればメモを取った私の立場からお話をさせていただきます。